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寄り道 ミャンマー

ここでは、「寄り道 ミャンマー」 に関する記事を紹介しています。
ただのタイが好き、そして旅が好きなTripuncle代表の旅行ブログです。

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2015年12月にネットショップ「Tripuncleアジアの暮らし雑貨」をオープン。関連記事も書いていきます。 Tripuncle アジアの暮らし雑貨にて、少しでも旅に行った気分になっていただけたら、という想いを込めて。。

トリップアンクル縮小版


ミャンマーに行ったのは、1999年。
もう10年が過ぎました。
つい最近の2007年、ミャンマーで暴動が起きて、日本人のジャーナリストの方が銃撃されて亡くなるという事件が起きてしまいました。

今もって、軍事政権が政権を握り、何となく不安定な政情のミャンマー。
今でこそそんなイメージの国ですが、10年位前はまだ良い国でした。
軍事政権であったことに変わりはないのですが、たまたまタイミングがよかっただけなのかもしれませんが、とても良い人々に巡り合い、楽しく旅ができました。
ミャンマーに何とANAも飛んでいたのです。確か関西~ヤンゴンに週3便だったと思います。

今後どのようにミャンマーが変わり、発展していくのか全く持ってわかりませんが、とにかく見守り、またミャンマーの地を踏めたなら、非常に喜ばしいことだと思います。

当時は強制両替なるものも存在し、空港で無理やりUS300ドルを、外貨兌換券(ミャンマー国内でのみ通用するUSドルと同じ価値を持つ貨幣)に両替させられていたのです。
そんなミャンマーでの出来事を、またじっくりと思い出しながら、書いていきたいと思います。
いつもどおり、まずはバンコクに来ないと、私の旅は始まらないのです。
バンコクまでは、国内と変わらない感覚で、やって来ます。

ここで、もし次の国に行く気があるのならば、すぐに手配をしないといけません。
手配を怠ると、延々とバンコクに沈没していくことになってしまいます。
今まで何度沈没したことか・・・
今回はそうならないようにしよう。と心に決めていたので、バンコクのカオサンに着くやいなや、すぐさま現地の旅行代理店に走ったのでした。

いつもの現地の旅行代理店で、すぐにヤンゴンまでのチケットを予約してもらい、ミャンマービザの申請です。
いつか書いたハノイでのラオスビザ待ちとは異なり、2日後にはできるとのこと。しかも東京で取るよりも安いのでした。
ベトナムハノイでの1週間は何だったのでしょう?私は騙されていたのでしょうか?

ミャンマーの首都ヤンゴンへは、1999年当時は、ミャンマー航空、タイ航空、ビーマンバングラディシュ航空の3社がバンコクから飛んでいました。
ビーマンが一番安いのですが日程的に合わないので、ミャンマー航空をチョイスしました。
マイルはつかないけれども、未知の国の航空会社には非常に興味を持って、決めてしまいました。

これを書いている2009年8月現在、バンコク発ヤンゴン行きのチケットは5000バーツくらいからあるようです。
1999年当時もそのくらいかもう少し安かった気がします。

これで今回もどうにか、バンコクに沈没せずに済みました。

さてさて、張り切ってカオサンからドンムアン空港へ向かいました。
ミャンマービザも下りたので、準備万端。
後は、ドンムアンからヤンゴンへ運ばれるだけです。
当時はまだドンムアン空港でした。現在はスワンナプーム空港。

何だかバンコクを早く脱出できたことがとても嬉しく感じられました。
ドンムアン空港のチェックインカウンターは、さすがミャンマー航空。ガラガラです。
普通は、荷物は預けないで機内持ち込みにするのですが、この日はどうゆうわけか、預けてしまいました。きっと何か面倒になったのでしょう。
これが失敗の元でした。

ドンムアン空港は、エアコンが効きすぎてとても寒かったのです。
Tシャツ1枚でウロウロしていたのですが、寒すぎてだんだん喉が痛くなってきました。
こりゃやばいと思ったのですが、時既に遅しでした。
風邪です。
この風邪を引きずったまま、ミャンマー旅行を継続することになってしまったのでした。

暑い国の空港は、往々にしてクーラーが異常なほど効いています。
寒いくらいです。というか寒いです。
私はこの一件の後、東南アジアでは長袖を持ち歩くようになりました。
常夏の国でも、薄手の何かを持っていないと、また同じ目に遭いますからね・・・
これは、空港に限らず、エアコンの効いたレストランや、デパート、映画館、エアコンバスの車内、地下鉄など、どこでも共通して言えることです。特に寒がりな私にとって、長袖は重宝します。

これから、暑い国を旅される方は、本当に注意してくださいね。
クーラーで風邪ひき・・・せっかく安いチケットを手に入れての楽しい旅も台無しですから。
バンコクのドンムアン空港では、風邪をひき、踏んだり蹴ったりの旅の始まりとなりました。

ミャンマー航空の飛行機は、ボーイング737-400でした。
風邪をひいて、三半規管がおかしくなって炎症でも起こしたのか、離陸時に耳がキーんとなる具合が、いつもよりひどい気がしました。
これはミャンマー航空の機材のせいかとも思いましたが、いやいや、やはり自分の耳が炎症を起こしていたのでしょう。

飛行機は順調に離陸して、バンコクを離れヤンゴンへ向かっていきます。
飛行時間は約2時間くらいです。

途中で何とも言えない景色に遭遇しました。
場所は恐らく、ミャンマー領で、ミャンマーの川がアンダマン海に注ぐ地点であると思われるのですが、飛行機の窓から下を見下ろすと、何という光景でしょう!
人が誰も住んでいない、いや住めないのではないか?と思わせる、海と陸地の境目に延々と砂地のようなものが横たわっていました。そして遥か向こうまで砂地が続いていました。
砂地というか、湿地帯とも言えます。
自然のままなんですねえ。このような場所は手のつけようがないのでしょう。
当然家は一軒もありません。人の気配が全く感じられない・・・そんな光景でした。

その砂地のような、湿地帯にような、この世ではないような錯覚にさえ捕らわれる区域の上空をしばらく飛び続けた後、ミャンマーの首都であったヤンゴンへのアプローチを開始すべく、飛行機は高度を下げ始めました。

いよいよ、ヤンゴンへ着陸です。

不思議な不思議な、湿地帯のような光景を見ているうちに、飛行機は高度を落とし始めました。
いよいよ、ミャンマーのヤンゴンへ着陸です。

周囲の景色は、特にこれといって気を引くものはありません。
ただただ、湿地のような草原のような、そんな中の飛行場にタッチダウンです。
ここまでの瞬間が私はすごく好きなのです。
初めての国の時は特に・・・。
今日初めて入国するこの未知の国を、上空から観察すると、いろいろな想像を掻き立てられ、緊張と期待の入り混じった、妙に神経の高ぶった状態になるのです。
ちょっとした冒険みたいで、私はこの瞬間をとても気に入っているのです。

ミャンマー航空のパイロットも、おそらく軍人上がりなのでしょうか。
非常にショックの少ない着陸ではありました。
他の間ミャンマー航空の機体を見ながら、ターミナルビルに到着です。
1999年当時は、ヤンゴン空港のターミナルは、小さく古いものでした。
今はどうなっているのでしょうか。

緊張と期待の入り混じった状態は、市内に入り宿を取ったときに、半分くらいはなくなるのですが、そこまで到達するのに、このミャンマーという国では、強制両替という仕組みを通過しなければなりませんでした。
現在は強制両替のシステムはなくなっています。

次は当時あったミャンマーの強制両替について書きます。

ヤンゴン空港での、入国手続きはビザもあったので当然のごとく、すんなり終わりました。
さて、ミャンマー入国の面倒な強制両替のコーナーへと進みます。

1999年当時は、300USドル分を入国時に、FECというミャンマー政府の発行するドル、つまり兌換券のようなものに両替するということが義務付けられていました。
おそらく政府の政策で観光収入を確実に上げるためと思われるのですが、とにかくそういうシステムになっていたのでした。
(これを書いている2009年現在では、強制両替はUS200に緩和された後、停止しているとのことです。)

兌換券は、当然ミャンマー国内でしか通用しないので、なるべく使い切る必要がありました。
飛行機を使えば、何とか300USは使えそうですが、ここは物価の安いミャンマーです。
1週間足らずの滞在で、使い切るのは難しいかもしれません。
FEC⇒USドルへの再両替も可能ではあるらしいのですが、手数料も掛かるでしょうし、情報は流動的でしたのでなるべくなら、交渉して強制両替の額を安く変更してしまった方が楽なのではと考えて、実際に交渉してみる手を取ったのでした。

強制両替のカウンターに着くと、当然300ドルと言われました。
そこで、交渉を開始です。
運よく同じ飛行機に日本人が居たので、総勢3人で交渉に掛かりました。
しかし、手強いの何のです。
向こうも政府の役人なのでしょうが、一歩も譲りません。
他に我々のように、交渉しているツーリストは居ないようで、皆すんなりと300USを300FECに素直に両替しているようでした。
両替のコーナーは、到着した人々が一人減り、二人減りとなっていき、しまいには私達3人のみということになってしまいました。

流石に政府の役人も呆れたのか、他に誰も居なくなってから、
「OK。一人100USでいいよ。」と言ってくれました。
半ば呆れ顔でしたね。
こうして強制両替は、100USで済んだのでした。

2009年現在は、強制両替は停止されているようです。
安心してミャンマー旅行を楽しんで下さい。ただし、いつ復活するか?それは政府のみが知っています。出掛ける前には情報収集必須ですね。

何とか強制両替を100USドルで済ませて、気分がよくなったので、そのままその3人組で市内へ向かおうということになりました。

ヤンゴン市内へは、バスはないのとの情報しかなく、タクシーしかアクセス方法はありません。
仕方なくタクシーと交渉して,確か3ドルくらいだった気がします。
今のガイドブックだと、6ドルと記載があるので怪しいもんですが、まあ5ドル以下で、それほどボッタクられた印象はありません。
交渉も案外スムーズにいったという記憶が残っています。
おそらく協定料金でいくらと決まっていたのかもしれません。

空港~市内は、30分くらいでしょうか。
それほど遠くはありませんでした。
そのまま、あらかじめ目星をつけておいた、東京ゲストハウスへはすんなりと到着です。
特にここでプラスの料金も運転集から請求されませんでした。やれやれ・・・

この後徐々にわかってくるのですが、ミャンマーの国はどんな国なのか、まだここではよくわかっていなかったのですね。
初めての国に着いたばかりで、やはり緊張していますから。

東京ゲストハウスは、その名のごとく日本人がよく泊まる宿で、オーナーさんは日本人の方でした。
ここで、ミャンマーについての学習が始まるのでした。


ミャンマーのヤンゴンにある東京ゲストハウス。
現在でもガイドブックに出ているので、まだ健在なのですね。
何だか懐かしく、そして嬉しく感じます。

ビルの2階にある、部屋数もそれ程多くない、むしろ小さなゲストハウスでした。
旅行者が集えるように、リビングは開放されていて、情報ノートも置いてあり、いろいろな情報をえることができます。

従業員もとても親切で、日本語堪能なミョンミンさん?だったと思うのですが、ミョンミンさんを筆頭に感じのよい従業員がいて、いろいろお世話してもらいました。

シャワールームは清潔ではあるのですが、水圧が弱かったなあという印象が残っています。
ちょっと体を洗うのに、とても時間が掛かりました。
シャワーもちょろちょろとしが出ず・・・・・

ミャンマーの国の事情かもしれませんが、、当時は停電が多く、しかも時間が決められていて、その時間になると必ず停電するという仕組みになっていました。時間にすると1日の8時間くらいだったでしょうか。
そうなると、エアコンは使えなくなるのですが、その他の電気は、発電機をブルルンと回してまかなっていました。ミャンマーの国のインフラの状態がまだ完全ではなかったのでしょう。
現在はどうなのでしょうか・・・

そんな状態のゲストハウスでしたが、何となく居心地がよいので、私のゆったりとした旅行スタイルにとても合い、何となく長居をしてしまったのでした。
宿も東京ゲストハウスに決定して、落ち着いたので街に出てみることにしました。
時間的にもまだまだ早かったので、問題ないであろうと・・・

歩き出してビックリです。
なんと、街行く人々皆、ミャンマーの民族衣装であるロンジーを着用しているではありませんか。
ジーパン姿の我々ジャパニなどは、すぐによそ者と見抜かれてしまいます。
まあよそ者ですので、そう思われても仕方がないのですが、やっぱりロンジーでないと、どうも浮きまくりといった感は否めません。

街歩きもそこそこに、町の中心であるスーレーパゴタのロータリーも、とりあえず通過して、ボーヂョーアウンサンマーケットへ行きました。
ロンジーを買いたくても、現地通貨であるチャットを手に入れないといけなかったのです。
ここには、インド商人が経営する宝石店があって、闇両替をしてくれるとのことでした。
政府の公定レートはおかしくて、もし公定レートでコーラ1本買うと4ドルくらい払うことになってしまうのですが、実際には公定レートは有名無実化しており、みんな庶民レートで買い物しているとのことでした。当たり前ですよね。
だから銀行でなく、闇両替という図式が成り立つのでした。

ボーヂョーアウンサンマーケットで、あやしいインド人の店に入ると「チェンジマネー?」とすかさず声を掛けられたので、レートを確認して両替。かなり怪しい雰囲気はありましたが、特に騙すということはないように、見受けられました。
しっかりお札の数を数えて、あまりにあっけなく闇両替完了です。

流石にトラベラーズチェックは使用しません、というか使用不可能です。
ミャンマー国内では、USドルの現金が一番効力を発揮するようです。
間違ってもチェックのみ持って、ミャンマーへ行かないで下さいね。

両替をして、ミャンマーチャットを手に入れたので、ひとまず安心しました。
これで何でも買い物をすることができます。

街行く人々は、みんなロンジーを身に着けており、我々のジャパニの一行はすぐにでもよそ者と見受けられてしまいます。
これは旅をするのに、按配がよいとは言えません。
街を歩いていると、布を売っている店を発見しました。

もちろんこの布はロンジーにも転用できるはず。
とりあえず店に入り、身振り手振りでロンジーが我々は欲しいのです。と伝えると、すぐに伝わりました。
どの布にするかということで、相当迷いました。
というのも、実にたくさんの種類の布があるからです。
散々悩んだ挙句、朱色のチェック柄に決定。これならそんなに目立たずに済みそうです。

早速東京ゲストハウスに持ち帰り、ロンジーの装着方法を教えてもらうと、何とそのままでは駄目だというではないですか・・・
要は一枚の布ではなく、筒状に布を縫ってロンジーを製作し、スカートのように履くとのことでした。

それならばと、すぐに東京ゲストハウスの下にある、仕立て屋にその布を持ち込んで、待つこと1時間。格安で縫ってくれたロンジーの出来上がりです。
これを装着すれば、ちょっとはミャンマー人に見えるでしょう・・・
安心して街歩きを開始です。

ミャンマーではまずロンジーを手に入れることをお勧めします。
2009年の今でも、やはりロンジー姿が多いのでしょうか・・・・?

東京ゲストハウスの前に、2件不思議なお店が並んでいました。
当時1999年の時代には、そういったお店があったのですが、今もあるのでしょうか?
今のミャンマーはいかに?

どんな店かといいますと、
まずチャイ屋というのは私が勝手に名付けたもので、要はインド式カフェとでも言いましょうか。
何故か、彼らは何を生業としているのか、ずっとこのカフェにたむろして、おしゃべりに高じているのです。
半ば羨ましい生活という目で見てしまいます・・・
そのカフェでは、インド式チャイの他に、サモサなんかも置いていて、なかなかインドなのです。
一瞬の間、ここはミャンマーであることを忘れさせてくれる、というかどこに自分が居るのかわからなくなる。そんな不思議な空間でした。

もう1軒のうどん屋も私が勝手に名付けているのですが、要はミャンマー風の麺がつゆに入って出されるので、うどん屋と命名しました。
このお店、入り口のドアはガラス戸なのですが完全にスモークが張られていて、中は全く見えません。なので入るのにかなり勇気がいります。
入ってみると、何てことはないのですが・・・
メニューはヌードルくらいなので、自動的にそれが出てきます。
うどんに似た麺で、たぶんお米から作られていると思われるのですが、美味しいので、ついつい通ってしまいました。

この2件。
宿から近いというか、目の前なので、大いに利用させていただきました。

何日間か、ヤンゴン市内を歩くうち土地勘が得られてきたので、ちょっと遠出ということで、日本大使館に行くことにしました。

日本大使館に行く目的は、パスポートの増補です。
旅を続けるうちに、パスポートのページ数が不足してきていました。
なので、ページを増やす増補をしておくことにしたのです。
これでしばらくは安心です。
よく、パスポート残存期間と残ページ数が、ビザ取得の条件になったりするからです。

ヤンゴンにある日本大使館は、市内からはちょこっと遠くにあります。
約3kmくらいでしょうか。
歩けない距離ではないので、歩くことにしました。
いろいろ調べてみると、バスは通っているような感じでしたが、行きは歩いて帰りはバスにと決めました。
帰りは、後ろから来るバスに適当に乗れば、スーレーバゴタ付近に到着するだろうという勝手な予想です。

市内を抜けて、てくてく歩きました。
だんだん家は減りカンドーヂ湖にぶつかり、湖の周囲を歩いていきます。
カンドーヂパレスホテルの前を通過していきます。高級ホテルです。
ゆっくり歩きながら・・・

1月の終わりのミャンマーの気候は、少々暑いので、歩いているうちに汗ばんできます。
なのでゆっくりゆっくり歩きます。
このカンドーヂ湖は、散歩するにはなかなか良い環境です。

ヤンゴン市内からてくてく歩くこと約1時間。
ようやく日本大使館に着きました。
パスポートの増補に来た旨告げて中へ入ります。

こんなところで、増補などしてほしくないような雰囲気でした。
大使館の係の人は日本人の方でした。
少し待ちましたが、増補はあっという間に完了です。
お値段は20ドルくらいだった気がしますが、もう少し安かったのかもしれません。
1999年の値段ですので、もしこれからミャンマーで増補される方は、確認してくださいね。

帰りは、流石にもう1時間歩いて帰る気になれず、バスを利用です。
といっても、路線図などないので、適当なところまでは歩くことにしました。
またしても、てくてく・・・

路線バスは、何故か日本の中古車が多く、塗装もそのままで走っているので、あー○○バス!
といった具合にすぐにわかります。
関東バス、西武バスなどをよく見かけました。
どうして、どんなルートで、これらのバスが日本から渡ってきたのか、まったく不明なのですが、日本の中古バスをミャンマーのヤンゴンで見かけるのは、妙な気分でした。
だって、方向幕やロゴまで日本語のまま残っているのですから・・・。

続きはまた次回に書きます。
日本大使館の帰りは、バスに乗ることにしました。
しばらく歩いて、3分の1くらい来た所でしょうか。
ミャンマー人が何人もたむろしている場所がありました。

バス停のポールこそないものの、なんとなくここはバス停だなあと感じたので、その群れに混じって待つことにしました。

すると何台もバスはやって来ては停まるのですが、行き先表示がミャンマー語のため、全くわかりません。
何台もやって来るバスを見ては、必死にスーレーパゴタへ行くバスであるという手掛かりを見つけ出そうとする私。
そんな私の行動を見ていたのか、ミャンマー人の一人が話しかけてきました。
「どこへいくのか?」とたどたどしい英語でした。
スーレーパゴタへ行きたいのだと、こちらもたどたどしい英語で返すと、OKとのこと。

しばらく待つと次のバスがやって来ました。
「これに乗ろう」と言うので、言われるがまま乗り込みます。
バスは発車すると、車掌がやって来て、料金を言いました。
すると、その私を案内したミャンマー人が、二人分のお金を払ってくれたのです。
いくらか聞いて私が払おうとしても、受け取りません。

バスは10分くらいでスーレーパゴタへ到着です。
降りてから怪しい店に案内されるのかと思いきや、そのミャンマー人は
「じゃあ、さようなら、ごきげんよう」と笑顔で言って去っていきました。

ミャンマー人の親切ぶりは、話には聞いていましたが、本当に自分がそれを受けると、本当に嬉しいものです。怪しい店に案内されるのでは・・?ということを思ってしまった自分の心を情けなく思いました。
自分もこういう行為を見習わなければ・・・と清々しい気持ちで宿に引き上げたのは、言うまでもありません。



ヤンゴン市内は、だいたいフラフラしたので、だいぶわかってきました。
しかし、日中は暑いので、あんまり長時間は歩けません。
そこで、いろいろなお店を探すことになるのですが、その中でもユニークだったのが、マクドナルドのミャンマー版です。

当然本物のマックではありません。
偽物です。
しかし入口のドアには、あのマックのMを模ったマークが堂々と描かれておりました。

店内に入ると、なかなかの盛況ぶりです。
地元のミャンマー人も多く利用しているようでした。
ハンバーガーを頼んでみましたが、やはり本物のマックとは似ても似つかないような味付けのハンバーガーでしたね。

名前と雰囲気だけは、マックそのものでした。
なかなか面白いです。
他にも、ダンキンドーナツに似た店がありましたね。
こちらも似たような感じです。

2009年現在、地球の歩き方を見ると、マックバーガーと、ミスターJドーナツという店があるとのことですので、マックはあって、ダンキンドーナツは名前が変更されたか、私の思い違いということになりますね。いずれにしても2つとも残っていたので、よかったです。

ミャンマーに行ったら、この偽物のショップに入ってみると、面白いですよ。

ヤンゴンの滞在にもそろそろ飽きてきました。
完全に飽きたわけではないのですが、そろそろ他の町も見たくなってきたのでした。
居ようと思えば、このままヤンゴンのみで終わってもいいのですが、それではこのミャンマーという国に限っては勿体ない気もしました。

そこで、次の目的地をマンダレーにすることに決めました。
マンダレーへの行き方としては、列車、バス、飛行機などありますが、今回はミャンマーの列車に乗ってみようと思いました。
というもの、保線がしっかりされていないので、列車が飛ぶ!という話を聞いていたからです。

列車が飛ぶとは、保線が完璧でなくて路盤が弱っている上に、客車のサスペンションが完全に駄目になっているために、客車がよく跳ねるということらしいのです。
その跳ね具合が、すごいと聞いていたので、どんなもんだか怖いもの見たさに体験してみたいというのもありました。

バスでも、日本の中古バスが当たる確率が高いので、どんなバスが来るのかという楽しみ方もあるのですが、ここは一つ列車の移動を試みてみることにしたのでした。

早速ヤンゴン駅で切符を購入。
アッパークラスを予約です。
アッパークラスは、タイの2等座席のようなものらしく、リクライニングもしてエアコンも効いているとのことでしたので、まあ遅れても苦痛ではないだろうという結論からでした。
結局、同じ東京ゲストハウスに泊まっていた、Fさんも同行することになったのでした。

この先厳しい旅路が待ち受けているということも知らず・・・
二人はマンダレーへ旅立つことにしたのでした。
東京ゲストハウスを後にして、次の街マンダレーへ旅立ちました。
マンダレー行きの列車は、18時にヤンゴン中央駅を出発し、翌朝の7時にはマンダレーに到着する予定でありました。
ところが・・・・

時間通りに出発するとのことでしたので、それまでには歩いて駅に到着。
少し買出しをして、水とちょっとしたお菓子を手に入れ列車に乗り込みました。
車内は、タイの2等エアコンの座席車両とほとんど同じ作りでした。
一応エアコンは軽く効いており、座席も一応リクライニングすることを確認し、少し安心。
やがて列車は、ヤンゴン中央駅を出発しました。
とりあえず、発車は時刻どおりですね。

しばらくは、市街地を走っているのか、家の灯りもいくらか見えていましたが、やがて闇の中を進むことになりました。
列車のスピードが上がってくると、噂の縦揺れが始まりました。
これはインドの列車よりひどいかも・・・というのが正直な感想です。
まず、客車自体のサスペンションが弱りきっています。
それに加え、保線状態も万全とは言えず、おそらくレールが波打っているのでしょう・・・
そのため、列車がガシャンと縦揺れするのです。
こりゃ脱線するのでは・・・と心配になるくらいです。

座っていても、お尻が座席の座面から離れそうになるくらいの激しい揺れです。
トイレに行くのは厳しいし、とても眠ることはできなさそうです。

そんな状況を味わいながら、夜も更けていったのでした。
マンダレーへ向けて、ヤンゴンを出発した列車は、順調に進んでいるようにも感じられます。
しかし、揺れは相変わらずひどいもので、縦揺れ横揺れ、時にはガシャンという妙な音を立てながら列車は進んでいきます。

このガシャンは、おそらく台車のショックアブソーバーが完全に機能していなくて、台車に付いているバネのみで列車は走っている状態なので、バネの伸び縮みをショックが吸収できず、バネがビヨーンと伸びきってから縮むので、こうゆう現象というか音が鳴るのでしょう。

ゴトゴトゴト、ガシャン(揺れ)といった状況が続くので、とても眠れません。

それでも比較的速い速度?で列車はマンダレーへ向けて走っていきます。
距離にしたら600km以上あるので、東海道線で言うと、東京~大阪は楽に越えますね。神戸くらいまでになるのでしょうか。
そう考えると、結構長い距離を行くことになるのでした。

夜も日付が変わる12時頃でしょうか、列車はある駅で停車しました。
停車して1時間が過ぎました。走行していないので、当然に揺れがなくなり睡魔が襲ってきました。
うとうとと少し眠りました。

駅名こそ覚えていませんが、この駅に途方もなく長い時間居ることになるとは・・・
名前のわからない、田舎?の駅に停車して、何時間が過ぎたのかわかりませんが、走行のあのひどい揺れが収まったのをいいことに、よく眠れそうです。

うとうとしては、また目が覚めるのですが、一向に出発する気配がありません。
少し眠ってしまった後、パッと目が覚めては、列車が動いていないこと、要するに周囲の景色の変化がないかを確認するのですが、まったく変わりません。

何が起きたのか?
反対列車が脱線でも起こして、その復旧に手間取っているのか?。。。

想像は悪い方へ考えてしまいます。
当然、日本のように案内放送もありませんので、状況は全く不明のまま、夜が明けようとしていました。
周囲のミャンマー人の乗客は誰一人として、文句を言うでもなく、いつものことのように思っているらしく、特に目立つ動きをするわけではありません。
ついに夜が明けて、周りが明るくなりました。

またいつの間にか眠ってしまいましたが、今度は暑さで目が覚めました。
エアコンは止まっています。
おそらく夜のうちに止まっていたのでしょうが、夜は涼しくて気が付かなかったのでした。

あまりの長時間停車。
もう朝の7時になりました。
マンダレーに到着の予定時間です。ここはどこなのでしょう?
ミャンマーの国内には変わりないのですが、どこかは確定できません。

あまりに長く止まるので、食料の調達に下車してみることにしました。
昨晩からある駅で停まったまま・・・・
朝の7時だというのに、まったく動く気配なし。
いったいいつ発車するのだろう??と思いつつも列車を降りて探検です。

列車は客車の編成なので、ゴトリと急に動かれたら、手動のドアから乗り込めばいいだろうと考え、なるべく客車から離れずに行動することにしました。
こんなところで置いていかれたら、ビルマの竪琴の現代バージョン風?になってしまうことは間違いないですからね。

とりあえず、近所の子供と思しき人々が、ちょっとしたお菓子を売っていたので、それを購入して、昨晩買ってきた水と一緒に朝御飯としました。
それにしてもまだ発車しないので、もう一眠りです。
うとうとして、はっと目が覚めてみても、まだ外は同じ光景のまま・・・・
かなりショックでした。

いい加減に、僕はもうこのままここから出れないのじゃないか?
と真剣に考えたものです。
どこかで何か良くないことが起きてこの列車だけ、孤立して取り残されているとか、先行列車が事故を起こしているとか、国に何か良くないことが起きているのか・・・?
などなど、想像はどんどん膨らんでいきます。

列車の付近に、これ幸いと群がっている物売たちも、売るものがなくなったのか、飽きてしまったのか、日陰に座り込んでしまっています。
まったくやる気を失ってしまったようです。
日も高くなった10時ごろ、ようやく汽笛が聞こえ、ゴトリと汽車はようやくマンダレーへ向けて出発しました。