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寄り道 ラオス

ここでは、「寄り道 ラオス」 に関する記事を紹介しています。
ただのタイが好き、そして旅が好きなTripuncle代表の旅行ブログです。

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2015年12月にネットショップ「Tripuncleアジアの暮らし雑貨」をオープン。関連記事も書いていきます。 Tripuncle アジアの暮らし雑貨にて、少しでも旅に行った気分になっていただけたら、という想いを込めて。。

トリップアンクル縮小版


バンコクの交通についても、適当に書いてきましたが、
そろそろバンコクを脱出し、それ以外のことも書いていきますよ。

ラオスの恐るべしACバスに乗ったのが、運命の始まり。
そもそもこの熱に犯されてしまったのは、ラオスにもエアコンバスがあるという情報を得たことから始まる。
ハノイからヴィエンチャンへの移動の飛行機で、たまたま知り合った、JICA関連の一行のガイドさんがサワンナケートへ行くなら、エアコンバスがあるからそれの方がいいよと教えてくれたので、そうかなるほどと、そのエアコンバスに乗ることになった。
これがまずかった・・・
エアコンバスといえば、当然エアコンがガンガンに効いていて、
長袖シャツが必要なくらいと想像していたのだが、
全く想定外の出来事ががあったのです。 

当時ラオスはエアコン無しのバスが主流であったので、もう腹を括ってそれに乗ろうと決めていた矢先の情報だったので、当然飛びついたわけです。

続く・・・

はじめはよくわからない場所のターミナルより、マイクロバスに乗せられた。
ああ、これがエアコンバスなのね。と観念していたが、またあるバスターミナルへ到着。
乗換えだという。

そこで乗り換えたバスは、確かに見た目はGoodなバスであった。
車体は韓国製であり、快適そうだ。
ああこれで快適な旅が約束された・・・と思ったが、乗車してかなりビックリ!!
なんとエアコンが効かないというか、壊れていて全く動いていないのである。

バスは見た目はGoodなエアコンバスなので、当然窓ははめ殺しで開かない・・・。
炎天下、灼熱地獄の中そんなバスが走ると車内はどうなるか・・・想像つきますか?
蒸し風呂の一言です。一番前の乗り降りするドアは開きっぱなしだが、そんなところ開いていても、あんまり変わらないよ。
ひたすら蒸し風呂の中に閉じ込められて苦行のバス旅となったわけです。
走り出せば、多少の風は入ってくるものの、そんなの焼け石に水。入り口の近くに座っていてまだ救われた・・。

ラオスはまだまだ知られてないようですが、ぜひ行ってみてはいかが?

これは1998年頃の話ですので、現状はどうなったかわかりません。
現在はもっとまともなことになっていてほしいのですが・・・。
そんな苦行のバスはそう簡単に目的地に着かない・・・。
これまた途中でパンクしてしまい、
修理に2時間・・・・ パンクで何故2時間?

タイヤ修理人の作業を紹介しよう。
タイヤを外すのに、小さなレンチでやろうとして、30分格闘。
そんなの無理で、少しバスを移動させ、エアコンプレッサーが使えるところまで行き。
ようやく外す・・・。

その後の修理方法は、チューブレスタイヤじゃないので、中のチューブを取り出す。
そのチューブに空気を入れてどこに穴があるか水など使用して調べる。
ここまではよい。

やっと穴を発見して、そこに接着剤でもって、補強用ゴムを貼り付ける。ここまではまだまだよかった。
貼り付けた後、万力でもって圧着。この時に変な風に(貼り付けた補強ゴムが曲がってしまうように)
万力を締め付けてしまった。でも気にもせずそのまましばらく放置。
20分位して、よっしゃOKとばかりに、万力をくるくると戻す。
当然変な風に接着されてしまい、そのチューブはパーになる。
そこでスペアタイヤを取り出してきて、それを装着してようやく出発となりそうだ。

スペアがあるなら何故それを先に装着しないんでしょうか・・・・
不思議なことってあるものですねえ・・・。

このパンク修理の間、乗客であるラオスの人々は黙って見ていて誰一人文句を言わない。
もうみんな諦め顔で、バスを降りて木陰で涼んだりしている。
私もその作業を延々と見物していたのだが、ラオスの人々に呼ばれて木陰で涼む。
誰一人文句も言わないし、当たり前の顔すらしている。
むしろ皆笑顔である。

パンク修理で2時間足止めされたら、日本人ならもう大変。
もし日本で同様の事があったら、マスコミが騒ぎ立てて大変なことになるのだろうな・・・・
と考え、ラオス人の心の余裕というか、生活の余裕というか、そういったものに本来の人間の姿を見たのでした。
日本も昔は誰も慌てていなくて、のんびりだったんだろうね・・・。
エアコン壊れていても文句言わないし・・・。

お金は無くても、ラオ人の方が心が豊かである。
それが本当の幸せか?・・・・
などと哲学的に考えてしまいましたね。
このようなバス旅のせいか疑わしいが、熱が出て、3日間ほどゲストハウスで
ウーウーと唸っていたわけですが、どうにもならんということになり、
急遽予定を変更してバンコクに戻ることになったのでした。

しかし、場所はラオスの田舎町サワンナケート。
そこで、一気にバンコクに、しかも1日で戻るとしたら、当然飛行機しかない・・
飛行機でヴィエンチャンまで戻り、乗り継いでバンコクとも考えたが、
時刻も調べる気力もない。下手をすればヴィエンチャンで1泊になってしまう。

ベッドに横になりながら、熱のこもった頭でどうにか考えるしかなかったのでした。

続く

もう10年以上前に、ラオスの首都ビエンチャンに行った。
あれから、月日が流れてしまったので、だいぶビエンチャンも変わったのではなかろうか。
10年ひと昔というくらいであるのだから・・・。

当時は、やっとタイのノンカイからメコン川に橋ができて間もないころだったと記憶している。
ベトナムのハノイで、ラオスのビザを申請して、1週間近く待たされて、えらく時間をもてあました記憶もある。
ベトナムのハノイから、飛行機でビエンチャンに降りる時は、窓からの光景を見て、何も無いとは聞いていたが、本当に何もない所だなあと、少々不安になったのを覚えている。
窓からは、ただの荒野が見え、ベトナム戦争の時か何かに爆撃で空いた穴?なんだろうか、が地上に見えている。
そんな中を飛行機は高度を下げていき、ビエンチャンの空港に接地した。

今はビエンチャンの空港は新ターミナルかもしれない。
当時は新ターミナルは建設中であって、飛行機から容赦なく降り注ぐ太陽光線の中を、歩かねばならなかった。
国際線とは思えない、非常に簡素な感じのする、ターミナルに入り、入国審査ということになった。
入国はなんの問題もなく行われたが、とにかくなんだかえらい国に来てしまったと思ったものだ。
まだ、この時点ではラオスのよさはわかっていなかったので・・
(つづく)

さて、ラオス入国を無事に果たし、市内へ向かうことになった。

この時は、非常にラッキーなことに、ハノイからのベトナム航空便に、日本人の一団、それもJICA関連の方々が乗っていて、ハノイの空港で「日本人ですか?」とあちらから声をかけてくれた。
その方々がチャーターしているマイクロバスに乗せてもらえることになった。
総勢8人くらいであっただろうか。
聞くところによると、皆さん会社の社長さんで、アジア方面の視察に来ているとか。
建設会社の社長さん、うどんチェーンの社長さん、中古車輸入販売の社長さん、などなど皆さん大変なお方達なのでした。

その偉い方々のバスに一緒に乗せてもらい、市内へ向かった。
日本語のできるラオ人のガイドさんも一緒だ。
市内へ至る道の光景をみて唖然とした。
とにかく田舎なのである。ぽつぽつと家はあるが、当然高い建物などない。
ある地点でガイドさんが、
「ここがビエンチャンの、言ってみれば繁華街ですねえ」と案内。
みんな唖然としている。「ここが繁華街・・・・」
何しろ、高い建物はなく、ちょこっと映画館があり、人はあまり歩いていないのだから。
程なくして、バスはラオプラザホテルに到着した。

ラオプラザホテル。
ここは街で一番の高級ホテルとのことで、現在でも稼働中である。
社長さんたちはここに宿泊。
私はといえば、他の安宿探しである。ガイドブックから目星は付けてある。
幸いなことに、このラオプラザホテルのすぐ近くだった。

社長さんたちから、晩御飯のお誘いを受けた。
きっとよい所に行くに違いない、高かったらどうしよう・・・・そんな気持ちを見破られたのか、
「いいよ、おごりだよ。大丈夫大丈夫」と言われてしまった。
何だか気恥ずかしい・・・。

私はさっさと安宿を見つけて、そこに投宿した。
名前は忘れたが、ラオプラザから徒歩で3分くらいのところだったと記憶している。
今はあるのかわからないが、中華系の老夫婦の経営する、小奇麗な宿であった。当然エアコン付き。

晩御飯はビエンチャンでは結構有名なレストランということで、ラオス料理を堪能。
やはり美味しいご飯は幸せな気分になるものなんですね。
いろいろな業界の社長さんたちと、楽しい歓談の時間を過ごさせてもらい、非常に感謝です。

社長さんたちは、翌々日くらいにバンコク経由で帰国された。
その後連絡を取ることはなかったが、今となっては、またお礼を言いたい気持ちです。
もう10年以上も経ち、ご記憶にないかもしれませんが、もしこのブログ読んで思い出していただけたら、コメントしてくださいね。
確か西日本方面の方々だったと記憶しています。
建設会社の社長さんとか、うどんチェーンの社長さん、中古車販売会社の社長さん、いろいろな偉い方がいらっしゃいました。

ビエンチャンでの思い出です。
時期は1998年4月から5月ごろですね。
社長さんたちの御一行が帰国された後、私はビエンチャンを気に入り、しばらく滞在することになった。
その後、以前に書いたラオスの記事につながっていくのである。

ビエンチャンでの滞在は、とてものんびりしたものであった。
ベトナムの喧騒から、ラオスののんびりムードに来てしまったものだから、気分的に緩んでしまい長く滞在する要因となっていった。

1998年現在は、ラオス・ビエンチャンの街にこれといって見るべきものもなかったので、ただただメコン川をみて過ごした。
観光といっても、凱旋門のような門を見に行ったり、ちょっと郊外にあるブッダパーク?という寝釈迦仏のある公園に行ったりするくらいであった。
街を歩いていてもベトナムと違って、物売りやらの攻勢も全く無く、逆に拍子抜けするくらいであった。
4月の終わり頃であったせいか、日中はビエンチャンの街を歩く人影もまばら。
それでもラオスに西洋人のツーリストは居た。それもけっこうな人数。
西洋人のツーリストはクーラーの効いたカフェに溜まり、そこで上映される映画をみたり読書をしたりして過ごしているようであった。
流石は休養というものを、よく理解しているなあと感心した。
私もそんな雰囲気に飲み込まれて、どうしても重い腰がさらに重くなってしまうのであった。

かれこれ10日くらいは、ビエンチャンで休養してすごした。
出会った日本人と「ラオスにも綺麗な海があったら申し分ないのにね」とよく話したものである。

メコン川対岸のタイの様子も遠目に見ることができる。
それはまるで二国間の経済の差を現している。
対岸には立派なビルも見える。それもたくさん。
こちらにはビルはない・・・・。
ラオスの人々は、対岸のタイのことをどう思ってるのだろうか。
つくづく、国境ってのは面白いなあと感じた。